ピタットハウス岡山店 artplanning ブログ
テキサス州サン・アントニオ編(17)
おはようございます。少し頭が痛い・・・・・でも時間がないのでがんばって早起きして・・・・
「アラモの砦(とりで)」の見学に行きます。ホテルから徒歩3分・・・すぐ近く。今日もとてもいい天気です。砦のまわりは公園に整備されていて、市民のいこいの場となっています。
歴史が古く・・・・サンアントニオの街はこの砦を中心に広がっていったので、砦が街の中心にあります。
アメリカでは数少ない逸話を持った遺跡であり、且つ、あとから作った建造物とあわせて一大公園となっています。都心部にあって、もう一つの観光名所のリバー・ウオークと近いこともあって訪れる人でいつも一杯です。サンアントニオは主だったところが殆ど歩ける範囲内にあることも広大なアメリカにとっては珍しい場所なのでしょう。
アラモの砦はテキサスの誇りと心の故郷のようなものでしょうか。アラモにもテキサスの州旗が一本だけ立っていますが、これが許される唯一の州だそうです。
通常は連邦旗と州旗の両方を同時に2本立てなければいけません。
元々テキサス共和国(The Republic of Texas)として独立国であったことから、テキサス州だけ連邦旗を立てなくても州旗だけの掲揚が許されるそうです。そういえば州旗だけのビルがありました。
写真は後の回で出てきます。
「アラモの歴史と現在」は以下に詳しく書いています。
観光パンフレットは『テキサス共和国の娘たち(The Daughters of the Republic of Texas 略称:DRT)』が提供となっています。DRTはテキサス州からアラモの保護と管理を任されていますが、州予算が付かずに寄付と土産物販売で運営しているそうです。それで表題に「テキサス共和国の娘」というのを入れているらしい。
アラモの砦と記憶していますが、このパンフレットだけでなく、どの表記にも「The Alamo」としかありません。シンプルなこの表現に想いをこめているのでしょう。
遠足の目的地にもなっているようで小学生らしき団体が先生に引率されて来ています。結構先生の言うことを聞いていますね。逆にお年を召した方々も結構います。日本で言うと、"奈良公園"なんでしょうか??
約一時間ほど見学して、ホテルに戻ろうと歩いていると・・・・・なんともクラシカルなホテルを発見!!
メンガーホテルと言います。サンアントニオの中心部にこんなに歴史ある建物があるなんて!!
すばらしくお洒落!!こんなホテルでの朝食・・・・おいしいでしょうネ!!
そしてそのホテルのコーナーを曲がると、またまた歴史ある教会・・・・
アメリカの町は、教会や広場を中心に放射状に街が形成されていて、町のどこからでも教会を見ることが出来ます。
教会は、静かで・・・・お祈りをささげてる方がいらっしゃいましたので、丁寧に見学させていただきました。
以下はアラモの歴史です。興味がある方は読んでみて下さい。
この後は・・・・ついに・・・・あの・・・リバーの船に乗ることとなるのでした。
つづく・・・・・
アラモの歴史的過去
元来サンァントニオ デ ヴァレロ、アラモは、伝導者やインディアンからの改宗者の寄り所として、70年近くも役立てられて来ました。この建設は現在の場所に1724年に始まりました。1793年、スペインの官公吏達は、サンアントニオにある五ヶ所の伝導区を宗教から分離させ、その土地を残っていたインデアンの居住者に分配しました。人々は引き続き田畑を耕し、以前は伝導区であった士地も彼ら自信の所有する土地となり、サンアントニオの(共同団体)都市を育てることにかかわる事となりました。
1800年の始め頃、スペインの軍隊は騎兵部隊を以前の伝導区に置きました。兵士達はそこをアラモ(アラモはスペイン語で英語のcottonwood,北米のポプラの木)とよびました。彼らの故郷であるアラモデパラス、コフィラを誉れとして、名付けられたものです。駐屯部隊の司令官はテキサス史に記録されているうちで最も古い病院を、粗末な兵舎の中に設立しました。アラモは、革命派とメキシコが10年間独立の為に、苦しい思いをした時の保守主義者と両者の寄り所でもありました。軍隊一スペインの革命者、そしてメキシコ人達は、テキサスの革命の時代に至るまで、
引き続きアラモを占有していました。
サンアントニオとアラモは、テキサス革命に重要な役割を果たしました。1835年12月、ベン マイラムは、テキサス人とテハノ志願者を率いて・市に宿営していたメキシコの軍勢に反抗しまし七五日間の軒並の戦いの後、マーチンペルフェクトデコスとかれの兵士隊に降参を強いました。勝利をきした志願兵士達は、コスの兵士達と交えた戦いに依って、既に防備が固められていたアラモを占領し、更に防御を固めました。1836年2月23日、アントニオ・ロペス大将の率いるサンタアナの軍勢が,サンアントニオの近辺に到着し、志願の兵士達を驚かせました。恐れを示さないテキサンとテハノ達は一緒にアラモを防御する準備をしました。防御陣はサンタアナの軍に対して、13日間持ちこたえましたアラモの司令官であったウイリアム・トラヴィスはテキサスの群落の団体に急使を走らせ、応援を乞いました。包囲されてから8日目に、ゴンザレスから32人の志願兵達が到着し、防御軍の兵士の数が200人近くなりました。
伝説が伝えるように、期待していた援助が消え失せたとき、トラヴィス大佐は地面に線を引き、ここに留まることに同意する者は、この線を越えてくれ」と頼んだとき、一人を除いて全員その線を越えました。防御者達が見たように、アラモを護る事はテキサスを護ることの鍵になり、サンタアナ将軍に降参をするより全員命を捧げる決意を示しました。アラモの守備兵の中には、短刀の名刀使いジムプーイ、元、テネシー州の下院議員でもあったデイヴィッドクロケットも加わっていました。
1836年3月6日の明け方に、最後の襲撃が来ました。縦隊になったメキシコの兵士達が、明ける前の暗闇をついて現われ、アラモの砦をめざして押し寄せて来ました。アラモの砦の中から、大砲や銃声が数回響いていました。再び、集団を組変えたメキシコの軍勢は、アラモの塀をよじ登り砦の中に進入して来ました。内部に入るや否や、捕獲した大砲を長い兵営舎と教会に向け、防塞の為のドアを開けて、発砲をかけました。防御者達が圧倒され、抵抗が出来なくなるまで、必死の戦いが続きました。日が昇ぼる頃迄には戦いが終わり、サンタアナがアラモの砦内に入り、彼の勝利の場面を見渡していました。
アラモ包囲の攻撃に就ての事実には、いろいろと論争が続いていますが・その戦いが象徴化した事実は明らかです。アラモは防御兵士達がとても抵抗出来ないハンディキャップを物ともせず対抗した、歴史的な闘争一男性達の自由を得るための最終的な犠牲が払われた場所として、世界中の人々の記憶に残り続いています。アラモは神聖な所として、又、テキサスの自由の聖堂として、今もなおこのため保存されています。
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